セブントップへ戻る
遊星より愛をこめて
データ
脚本は佐々木守
監督は実相時昭雄
ストーリー
欠番のため割愛
解説(建前)
欠番のため割愛
感想(本音)
第12話は公式に欠番となっているので、作品についての解釈等はしない。
ただ最近のセブン関連本では作品データが掲載されており、作品そのものが抹消されたわけではないので、欠番になった経緯等作品周辺的事情についての感想は述べることにする。
本話が欠番になった経緯については今更述べるまでもないだろう。
ウルトラに興味のある人でこのサイトに来るような人なら、その経緯を知らない人はいるまい。
ただ第三次ブームくらいの世代になると、関連本から12話に関する情報は一切削除されていたので、知らなかった人は多いと思う。
かく言う私自身もセブンに欠番があると知ったのは、高校に入ったころくらいだった。
どこから情報を得たかは覚えていないが、それを知って改めて子供の頃に買ったウルトラ百科を見て12話が抜けているのに驚いたものだ。
子供の頃は12話が抜けていても単なる誤植くらいにしか考えず気にも留めてなかった。
冷静に考えると全49話で最終回が49話で一致するのに1話飛んでいるという矛盾が起きていたのだが、子供はそこまで細かい整合性は気にしない。
所謂大人の事情というのを意識した、それが初めてだったかもしれない。
しかし当時はまだ情報が少なかったため、欠番になった経緯については正直よくわからなかった。
被爆者の差別らしいという情報はあったが、どう問題なのかわからなかった。
結局深く調べることもせず、普通にウルトラのことなど忘れていたのだが、ある事件を契機に否が応でも12話を意識させられることになる。
それが宮崎事件である。
当時はテレビのワイドショーや雑誌等で連日宮崎のことが報道されていた。
今でもかの有名な宮崎の部屋の様子は生々しく記憶に残っている。
当時私にとってもこの事件はそれだけインパクトがあった。
棚に雑然と並べられたアニメや特撮のビデオ。
「若奥様のナマ下着」。
当時は特撮マニアでも何でもなかった私は宮崎の趣味に異様さしか感じなかったが、それでも子供の頃特撮大好きだった自分にとっては妙な親近感があったのも事実である。
そして宮崎関連の報道で忘れかけていたあれが不意に私の前に現れる。
そう、宮崎は持っていたのだ。
12話のビデオを。
宮崎は12話のビデオをオタク仲間に貸し付けて、代わりに色々譲ってもらっていたらしい。
どこから入手したのかはわからないが宮崎は特オタ界隈では相当有名な人物だったらしく、かなりの人が宮崎から12話を入手していた。
後で聞いた話では当時から既に人間的に相当問題があったようだが、とにかく宮崎は12話を持っていたのだ。
この話を聞いて、12話に関する私の興味がますます高まったのを覚えている。
ただ、やはり12話に関しては情報がない。
90年代に入ると徐々に雑誌等で取り上げられる機会も増えるのだが、それでも詳しいことまではわからなかった。
しかしそれを一変させるメディアが登場する。
インターネットだ。
ネットにより、一般のウルトラファンにも徐々に12話の内容や欠番になった経緯を詳しく知ることができるようになった。
かく言う私も12話について詳しくしるようになったのはネットのおかげである。
やはり雑誌や書籍ではそこまで内容に踏み込めない。
12話に関してはネット先行で情報公開が進んだのである。
ネットの強みは何といっても問題になったスペル星人の姿を簡単に見ることができる点にあるだろう。
その写真だけでおよその問題は理解できてしまう。
そして探せば12話そのものすら視聴することが可能であった。
もちろん勝手にアップロードするのは著作権法違反なのだが、ファンたちもこれをあまり問題視しないのは、当事者たる円谷プロの姿勢に対する不満というのが背景にあるのだろう。
ファンなら誰だって幻のエピソードを見たい。
しかもそれが人気の高い佐々木、実相寺作品ならなおのことである。
そして作品そのものに問題がないのなら解禁して欲しい。
それがファンとしての素直な気持ちであろう。
では、そもそも12話は作品として欠番になるほどの問題があるのだろうか。
結論としてはやはりデリケートなテーマであるので欠番もやむを得ないと考えるが、その線引きは微妙なところである。
テーマだけで言うと、怪奇大作戦の傑作「死神の子守唄」も実はほぼ同様のプロットなので、一歩間違えると欠番にされかねない。
しかしさすがにそこまで行くと表現の自由が著しく制約され、良質なドラマ作りが難しくなってしまうだろう。
実際、この話が問題になったということはなく、近年でもデカレンジャーの「ハードボイルド・ライセンス」で同様のプロットが使われるなど、プロットそのものは問題とはなっていないようである。
因みに「死神の子守唄」は本話と同じ監督と脚本家。
ある意味リベンジとも言えそうだが、怪奇大作戦当時は本話は別に問題になっていなかったので、そういう意味はなかろう。
それでは、本話と「死神の子守唄」を分けたものは何なのだろうか?
これも有名な話だが、そもそもの発端はひばく星人という肩書である。
そして現実の被爆者を思わせるスペル星人のルックス。
何だそんなことかと思う人もいるだろうが、「そんなこと」ではないのである。
要は作品から感じ取れるメッセージ。
同じ動機から同じ行為を行うとしても、やはり見てる人にはその動機が真摯なものであるか否かはわかるのである。
いや、わかるというか、仮に動機が真摯であったとしても、そうとられる方が悪いに決まっている。
それが創作作品を世に出すものの責任なのである。
おそらくテーマ的には「死神の子守唄」も本話も同じ、核廃絶、戦争反対がテーマであろう。
しかし前者が被爆者をあくまで被害者として描いたのに対し、後者は加害者としてのみ描いてしまった。
そもそもスペル星人は脚本では甲虫型の宇宙人とされていた。
それを被爆者タイプに変更したのは実相寺監督だという。
ここに最大の問題があるのは明白であろう。
要は、実相寺監督は自らのテーマ(脚本のテーマでもあるが)を描くのに被爆者を利用した。
そこに被爆者に対する真摯な姿勢というものは感じられない。
戦争や政府を批判するのに被爆者を道具として利用したと言われても仕方ないであろう。
前述したようにデリケートなテーマである以上、それを取り扱う側には慎重にも慎重が要求される。
たかがルックスではないのである。
映像作品である以上、星人のルックスが被爆者を連想させるというのはそれだけで意味を持つ。
いくらテーマが正しくても、本人に被爆者を差別する意識がなくても、結果的にそう映る以上言い訳は許されないのだ。
個人的には欠番にせずにせめてセルソフトとしてのみ流通させるくらいはして欲しいと思うのが本音だが、欠番というのは円谷の意志表示であろう。
確かに本話は佐々木、実相寺コンビに、フジ隊員とアンヌの共演など見どころは多い。
しかし内容に問題がある以上欠番も仕方ないであろう。
円谷は怪奇大作戦でも「狂鬼人間」という欠番を生み出している。
やはり当時の円谷はやや人権意識を欠いていたと言わざるを得ないだろう。
円谷プロがこのような際どいテーマに挑んだ結果、多くの名作を残してきたことは事実である。
しかしそれも取扱いを誤ればもろ刃の剣ともなりかねない。
本話は映像とテーマとの関係の難しさ、微妙さがもろにマイナスに出てしまった。
ただ、人類は未来に向かって進歩するものである。
いつか本話のテーマである非核、平和が実現した世界も来るであろう。
そしてその時こそ、本話が過去の悲劇として解禁される時なのである。
セブン第11話
セブン全話リストへ
セブン第13話