さらばタロウよ!ウルトラの母よ!


データ

脚本は田口成光。
監督は筧正典。

ストーリー

夕暮れの海岸で夕日を眺める光太郎。
そこへウルトラの母の声が聞こえてくる。
「光太郎さん。もうすぐあなたの人生を変えてしまうような大きな事件が起こりますよ」。
ウルトラの母が指を指した先には白鳥船長の乗る日日丸が。
「1年前あの船で僕は日本へ帰ってきたんです」。
そこへ海底から怪獣が船を目掛けて襲ってくる。
爆破炎上する日日丸。
「お母さん、白鳥船長は?」
首を横に振る母。
「お母さん」。
「誰にも助けることはできないのです。たとえウルトラマンタロウでさえも」。
「ただ待つ以外に方法はないのですか?」
「いいえ。あなたがしなければならないことがあります」。
「僕にすることが?」
「そうです。命を賭けてもしなければならないことがあります」。
「それは?」
「それはあなたが自分で見つけなければなりません。」
ベッドの上でうなされる光太郎。
光太郎が目を覚ますと船長の帽子を被った健一とその友達がいた。
「船長。無事だったんですか」。
思わず喜ぶ光太郎。
驚き笑い出す健一。
健一の友人は中西一郎といい、2人の父親はタンカーの船長で2人は親友同士であった。
今日は一郎の父親が半年ぶりに帰ってくるので、2人でお祝いをしていたという。
健一の父も明日帰ってくる予定になっていた。
不吉な予感がする光太郎。
その日、ZAT基地に伊豆沖でタンカーが怪獣に襲われたと連絡が入る。
船名を聞いて驚く光太郎。
それは一郎の父が乗るタンカーであった。
タンカーは爆発炎上。
光太郎たちは船員の救助と怪獣の追撃のために出動する。
今探してる怪獣が健一の父のタンカーを襲うのではないかと焦る光太郎。
しかしZATの全力の探索にも関わらず生存者も怪獣も見つけることができなかった。
光太郎が白鳥家に戻ると、部屋の中からZATとタロウに八つ当たりする一郎の声が聞こえてきた。
「ZATだって一生懸命やってるよ」と健一。
「健一君は東さんが泊ってるからZATの味方をするんだ」と一郎。
「君だってタロウもZATも好きだったじゃないか」と健一。
「君になんかわかるものか。僕のお父さんは。僕のお父さんは」。
白鳥船長の写真立てを手に取る一郎。
「君のお父さんはまだ生きてるじゃないか」。
写真立てを床に叩きつけて出ていく一郎。
「光太郎さん。僕間違ってないよね」と健一。
優しく肩に手を置く光太郎。
「一郎君は寂しいんだよ」と光太郎。
健一の手にはガラスの割れた船長の写真立てが。
夜通しパトロールするZAT。
すると光太郎と北島の乗るホエールに怪獣の反応がキャッチされた。
一緒に降下する二谷と南原のスワロー。
その先には日日丸が航行していた。
怪獣に襲われ炎上する日日丸。
咄嗟にバッジをかざす光太郎。
しかし北島が同乗しており変身できない。
怪獣を攻撃するZAT。
しかし怪獣には逃げられ、日日丸の船員も救助できなかった。
沈痛なZAT基地。
「全員死亡か」と隊長。
「申し訳ありません」と二谷。
「謝ることはない。手抜かりはなかったんだ」と隊長。
それでも詫びる二谷に対して、「この次は必ず成功させるんだ」と隊長。
パトロールへ出動する隊員たち。
隊長は光太郎を呼び止める。
「辛いな。お前がZATの隊員になったのも、白鳥さんの船に乗っていたからなんだ」。
健一のところへ行くよう指示する隊長。
「辛い役目だが、お前にしかできないことだ」。
光太郎は船長の死については暫く健一に知らせないで欲しいと頼む。
いずれわかる時がくると隊長。
「その時のお前の態度が健一君にとってかけがえのないものになる。ZATのことは我々に任せろ。お前はそのことだけに専念すればいいんだ」。
白鳥邸に戻る光太郎。
父親と間違えて迎えに出てくる健一。
その頃さおりは父親の会社から電話で事故の連絡を受けていた。
泣き崩れるさおり。
「光太郎さん。知ってたんだね」と健一。
部屋に入り泣き崩れる健一。
その時大きな揺れがあり、怪獣サメクジラが出現した。
「健一君。あの怪獣だ。あの怪獣がお父さんをやったんだ」と光太郎。
外に出て怪獣を攻撃する光太郎。
光太郎はタロウに変身して怪獣と戦う。
そこへバルキー星人も現れた。
ZATの援護もありサメクジラをストリウム光線で撃破するタロウ。
星人はそれを見て姿を消す。
健一は港でウルトラ兄弟の人形を叩き割っていた。
それを止めようとする光太郎。
「光太郎さんに僕の気持ちがわかるものか。僕は悔しいんだ。あの時タロウが来れば、やっぱり怪獣はやっつけられたんだ。それなのに、一郎君のお父さんも僕のお父さんも助けてくれなかった」。
「違う。君はそんなに弱虫だったのか」と光太郎。
「弱虫なんかじゃない」。
「いや、弱虫だ。君は心のどこかでタロウに助けて欲しいと思っていたんだ。お父さんやタロウがいなかったら、君はどうやって生きていくんだ」。
「それは」。
「タロウはタロウで頑張っていたんだよ」と光太郎。
「どうしてそんなことが」。
腕のバッジを取り健一に見せる光太郎。
「これはウルトラの母が僕にくれたバッジだ」。
驚く健一。
「僕はウルトラマンタロウだ」。
健一に告げる光太郎。
「君がお父さんやタロウのことを忘れて、自分の力だけで生きていこうとすることは大変なことだ。だが、そんな苦労を君にだけはさせない。僕も一人の人間として生きてみせる。僕はウルトラのバッジをもう頼りにはしない」。
バッジを空に投げ捨てる光太郎。
そこにはウルトラの母がいた。
「光太郎さん。とうとうあなたも見つけましたね。ウルトラのバッジの代わりに、あなたは生きる喜びを知ったのよ」。
「お母さん」。
「さよならタロウ」。
「見たぞ、タロウ」。
そこへバルキー星人が現れた。
「タロウではない。東光太郎だ」。
「バッジのないタロウなど恐ろしくもない。これで地球は我々のもの同然だ」。
「バカなことを言うな。この地球は人間の手で守ってみせる」。
巨大化する星人。
「健一君、よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気があることを」。
光太郎は星人をコンビナートへと誘導する。
逃げる光太郎を追う星人。
星人の攻撃を何とか交わす光太郎。
星人は燃料タンクを蹴り飛ばし爆破させるが、その時自らも大量の重油を浴びてしまった。
それを見てZATガンで攻撃する光太郎。
ZATガンの火花は星人の浴びた重油に引火し大爆発。
炎上する星人。
星人の最期を見届けた光太郎は、制服に引火した火を地面にこすりつけて消火する。
「健一君。見ろ人間の力で星人をやっつけたぞ」。
健一と2人で草の上に寝転ぶ光太郎。
「光太郎さん。ウルトラのバッジに頼らなくてもやれましたね」。
ウルトラの母の声。
「健一君。頑張るんだぞ」。
固く握手する2人。
光太郎はZATを辞めて再び旅に出る。
見送りに来る隊員たち。
「隊長。お世話になりました。荒垣さんにもよろしく」。
「仕方がない。一度言い出したら言うことを聞かないお前だ。元気でやれ。その代わり、お前の言う勉強とやらを精一杯やってくるんだ」。
隊長と握手する光太郎。
旅立つ光太郎に隊員たちはエールを送る。
都会の雑踏に消えていく光太郎。

解説(建前)

バルキー星人は何故サメクジラにタンカーを襲わせたのか?
サメクジラはバルキー星人が持ち込んだ怪獣と思われるが、名前の通り水中を自在に動ける。
また陸上でも戦闘可能であり、地球侵略を狙うバルキー星人にとっては大きな戦力だ。
ZATの防衛網を突破して地球に侵入したバルキー星人はいったん海の中に潜伏した。
ドロボンがあっさりレーダーに捕捉されたのとは対照的に、バルキー星人の宇宙船はステルス性能が高かったと思われる。
海の中を選んだのは潜伏するのに都合がいいからであろう。
その後サメクジラは東京上陸を目指して海中を進んだ。
タンカーを破壊したのはくまでついでで、東京に上陸してタロウを倒すのがサメクジラとバルキー星人の目的であったと思われる。
ところでバルキー星人は自分のことを我々と言っている。
恐らくこのバルキー星人は先兵だったのであろう。
本来なら後続が来る予定であったが、サメクジラがあっさり倒され、タロウ抜きで星人まで倒されたため、地球侵略は諦めたものと思われる。

ウルトラの母が、光太郎に白鳥船長の死を予言したのは何故か。
これはやはり、光太郎にタロウも万能ではないということを教えたかったのであろう。
「誰にも助けることはできないのです。たとえウルトラマンタロウでさえも」。
もしかして母は、父が珠子を生き返らせたのを見ていたのかもしれない。
そしてその時の光太郎の態度を見て心配になった。
人間には人間のルールがある。
そのことを光太郎に教えたかった。
ウルトラの母はタロウではなく、あくまで光太郎に呼び掛けている。
「光太郎さん。とうとうあなたも見つけましたね。ウルトラのバッジの代わりに、あなたは生きる喜びを知ったのよ」。
ウルトラの母の姿が光太郎の母の姿なのは、恐らく光太郎のイメージが投影された結果だと思われる。
ただ、そのことがウルトラの母自身に影響を与えている可能性は高い。
つまり、ウルトラの母は光太郎の母でもあるのだ。

光太郎はタロウと同化することによって、何でもできるようになった。
しかし、それは光太郎自身を堕落させる。
これからは人間東光太郎としての人生を歩んで欲しい。
それがウルトラの母の光太郎の母としての願いなのであろう。
「やりかけたことは最後までやりなさいよ。途中でやめては駄目よ」。
「光太郎さん。今日からあなたは一人で生きていくのです。寂しいことなんてありません。あなたの頭の上にはいつも太陽が輝いていることを忘れないでね」。
ウルトラバッジがなくても、ウルトラの母はどこかで見守ってくれる。
光太郎は母の言葉を受けて、自ら中断していた勉強を再開したのである。

それでは、光太郎とタロウの関係はどうなってしまうのだろうか?
まず光太郎の生死であるが、第一話で考察したように一応死んではいないと解釈する。
とすると2人は一心同体のはずだが、バッジを返すことにより分離したのであろうか?
しかしバッジを返すだけで分離できるほど簡単とは思えない。
やはりまだタロウと光太郎は一心同体と思われる。
バッジを返すことはあくまで光太郎の意思で変身できないという意味しか持たないであろう。
ただしタロウも光太郎の意思に逆らって行動できないので、結局バッジなしでは光太郎は二度とタロウに変身できないということになる。
これはやはり適当なタイミングで2人は分離したと考えるのが素直である。
それがいつなのかはわからない。
あるいは長命のウルトラ一族のことであるから、光太郎の人生に最後まで付き合った可能性も否定できないであろう。
まあ、宇宙では頻繁に戦争が起きているので、それは難しいかもしれないが。

感想(本音)

非常に解釈に難渋した。
かなりこじつけ気味になってしまったが、そこは寛大な気持ちでご容赦願いたい(笑)。
粗は多いが、素直に感動できる最終回。
昭和のウルトラの最終回は名作揃いであるが、本話もそれに違わない最終回であろう。
ウルトラマンタロウが成功作となったのは、やはり1年間メインライターがしっかり責任を果たしたのが大きい。
路線変更がなかったと言われるタロウだが、あさかまゆみの降板により恋愛路線が縮小するなど小さな路線変更はいくつかあった。
しかし第一話と最終話がきっちり対になっているなど、田口氏が意図したテーマはしっかり描けている。
そこがタロウの一貫性というか話のまとまりに繋がっているのであろう。
最後の敵を倒した光太郎は一人の人間に戻る。
こういう閉じた世界観はウルトラでは珍しい。
ウルトラシリーズの総決算を銘打って始まったタロウだが、やはりここで一区切りつけようという意識はあったと思う。

上司や先輩からお告げがあるのはウルトラシリーズの最終回では定番。
セブンではセブン上司、新マンは初代マン、エースは夕子。
ウルトラマンタロウにおいては当然ウルトラの母。
前三者がピンチを知らせる警告に近いものであるのに対し、ウルトラの母はもっと大きな人生についてのアドバイス。
ここがタロウという作品の特徴であろう。
第一話で母はこう言った。
「やりかけたことは最後までやりなさいよ。途中でやめては駄目よ」。
「今日からあなたは一人で生きていくのです」。
これは明らかに親から子供へのアドバイス。
当然、番組から視聴者たる子供へのアドバイスなのである。

しかし第一話でいきなり突き放すことはしない。
1年間番組を見てもらうのだから当然というのは置いておいて(笑)、母はこうも言っている。
「寂しいことなんてありません。あなたの頭の上にはいつも太陽が輝いていることを忘れないでね」。
子どもが独り立ちするまで親が子を守るのは当然。
ウルトラファミリーが助けに来るのも、まだまだタロウ=光太郎=視聴者の子供が半人前だからである。
しかし1年間の戦いを経てタロウ=光太郎=視聴者の子供は十分成長した。
制作側も今なら大きな試練にも一人で立派に立ち向かえると判断したのである。

なんか小学〇年生的な発想であるが、当時メディアミックスしていたのが小学館なのだからさもありなんという感じ。
恐らく、最終回における白鳥船長の死というのは第一話から想定されていたものと思われる。
もちろん、1年物のドラマなので想定通りに進まないことの方が多いが(エースが典型か)、その点タロウは比較的順調に進んだ好例であろう。
視聴者の代表たる健一にとって父親の死、光太郎の旅立ちは大きな試練である。
しかしタロウに変身せずに星人を倒した光太郎のように、知恵と勇気を絞って生きて行かなくてはならない。
そして、それは視聴者たる子供たちへのメッセージでもあるのだ。

ただ、ウルトラマンタロウにおいて、そのメッセージがしっかり描き切れていたかというと問題もある。
本話を見て真っ先に気になったのは、2話前でウルトラの父が南原の婚約者の珠子を生き返らせたこと。
しかも光太郎は珠子の死に対して父に抗議とも言える態度を示していた。
これは明らかに自立した人間の態度ではないであろう。
しかもあろうことか父は珠子を生き返らせてしまった。
これについては過保護と言われても仕方ないであろう。
51話の脚本は阿井文瓶氏。
レオの立ち上げに忙しかった田口氏との連携が取れていなかったのが原因と思われるが、今の目線からはシリーズ構成の杜撰さが目立ってしまう。

また、52話では光太郎が北島と同乗したウルフの爆発と同時に変身している。
これを見ると、何で今回も変身できなかったのかと疑問に思われても仕方ないであろう。
もちろんわざと特攻して変身するのは滅茶苦茶だが、今までは人を助けるためにバレバレ変身をしてたのであるから、なぜここまで変身を躊躇するのか説得力に乏しい。
これじゃ船長だけ見殺しになり、不公平な気もしてしまう。
ただ、田口脚本においては、「ウルトラのクリスマスツリー」などタロウが万能じゃないことも描かれていた。
また、光太郎が身内のピンチだからと正体を明かして変身するのも勝手すぎる(それでも健一のピンチなら変身しそうではあるが…)。
恐らくウルトラの母もそれを戒めるために事前にタンカーが爆発することを教えたのであろう。
父が珠子を助けた点も、逆手にとって上記のように解釈すれば、シリーズ構成が破綻したとまでは言えない。
したがって、とりあえずシリーズ構成的には何とか整合性は保ったと解釈しておこう。

ただ、本エピソード単体においても結構粗が多い。
まず、朝日奈隊長の「その時のお前の態度が健一君にとってかけがえのないものになる。ZATのことは我々に任せろ。お前はそのことだけに専念すればいいんだ」というセリフ。
仮にも怪獣退治の責任を担う人間がこんなこと言っていいはずがない。
白鳥家と朝日奈隊長は浅からぬ縁がある。
これでは身内びいきと言われても仕方ないであろう。
テーマをわかりやすくするためだろうが、今こんなセリフ言わせたら総ツッコミである。

また、時系列的に見ても不自然な点が多い。
光太郎が朝起きて健一から一郎を紹介され、ZATに出勤してタンカーの事故を知り、また白鳥家に戻って悲嘆にくれる一郎を見、今度はパトロール中に健一の父親の事故を見て、隊長に言われて白鳥邸に戻るという流れ。
脚本の都合であろうが、普通なら緊急時に白鳥邸に戻ってる場合じゃないので、不自然さは否めないであろう。
またサメクジラとバルキー星人にしても、一郎の父親のタンカー、白鳥船長のタンカー、白鳥家の近辺と、物語の都合で現れている。
挙句の果てに、光太郎がバッジを投げ捨てたのを見て、襲ってきた。
ドラマの偶然に突っ込むのも野暮だが、さすがにこれはやり過ぎであろう。
もちろん、視聴者の子供にわかりやすくするために余計な部分を省いた結果なので当時の子供向け番組としては仕方ないのかもしれないが、構成が雑なのは否めない。

ただ、レオのメインライターの仕事もしながらタロウで多くの脚本を書いてきた田口氏に時間がなかったのも確かである。
本来ならもっと時間をかけて前後編にしてもいいくらいの話である。
実際、セブンの最終回はそれだけ丁寧に作ったからこそ、あれだけの名作になった。
ただ、ウルトラシリーズの最後のつもりでスタッフが総力を挙げて作ったセブンと、次の番組が来週から始まるという過酷なスケジュールで作っていたタロウの制作状況の違いを無視するのはフェアではないであろう(もちろん技量的な問題もあるだろうが)。
無理に膨らませ過ぎずに1話できっちり収めたからこそ、爽やかで感動的な最終回になったとも言える。
今の目線からはおかしくても、当時は大人向けの刑事ものとかでも不自然なものは多かったので、あくまでドラマとしてリアリティがあれば問題ないのである。
そしてリアリティというのは視聴対象年齢によっても違う。
タロウにおいてはメイン視聴者である低学年の子供がリアリティを感じさえすればそれでよい。
何十年も経って、いい歳したおっさんが、あれはおかしいと言ったところで気にする必要はないのである(笑)。

路線変更については前述したが、本話でさおりさんとの別れのシーンがなかったのは、その象徴であろう。
最終回を健一メインにしてしまったため、さおりの出番は父の死を知って泣き崩れるシーンがラストになってしまった。
尺の都合もあるだろうが、あさかさんの降板によりさおりの役割はほぼ居候先のお姉さんという程度になってしまったので、大仰に別れるシーンを入れなかったのは正解だと思う。
しかし、さおりのこれからも大変である。
健一が成長したと言ってもまだまだ小学生。
さおりは健一を養っていかなければならない。
もちろん、生命保険や会社からの補償はあるから当面の生活には困らないであろうが、下手すりゃあの豪邸も手放さなければならない。
またタロウの世界に親のいない子供が増えてしまったが、あの2人なら姉弟、力を合わせて生きて行けると信じよう。

最終回では久々に名古屋氏演じる朝日奈隊長が存在感を発揮していた。
本話の脚本は隊長抜きでは成立しないと言っても過言ではない。
第一話と最終話は絶対出るという契約にはなっていただろうが、荒垣副隊長役の東野氏もいない状況で名古屋氏までいなければ、締まらない最終回になったと思われる。
タロウにはスポット的に参加して隊長のキャラとかも掴めていなかったはずであるが、ちゃんと役に説得力を持たせていたのはさすが名優。
因みに光太郎の「荒垣さんによろしく」というセリフは、役柄上だけでなく役者としてもお世話になった篠田氏の感謝の気持ちも含まれていたのではなかろうか。
もちろん、スタッフの感謝も含まれていたであろう。
他の隊員たちは特にこれと言った絡みもなし。
見送りに来るシーンがあっただけでも良しとしようか。
二谷副隊長は見た目にかわいそうな感じがあるので、失敗して謝ると気の毒になる。
荒垣だとそういう感情は湧かなかったのだが(笑)。

ウルトラの母を演じるペギー葉山さんは当時40歳。
いつの間にかウルトラの母の年齢も追い越したのだなあとしみじみとなる(まあ、実際のウルトラの母は14万歳なのだがw)。
健一と光太郎の別れのシーンにかかる「ウルトラの母のバラード」は泣ける。
ただ、調べたらペギー氏ではなくて藤田淑子氏のバージョンとのこと。
藤田氏といえば、一休さんとかこてんぐテン丸とか、そういう声のイメージなので、ウルトラの母のイメージはなかった(マライヒも違うし)。
こういう感じの歌も歌えたのだと感心した。

バルキー星人のデザインについてはレオの没案というのは有名。
その割に悪そうなのは造型段階で改変したのだろうか。
サメクジラともどもラスボスの割りに弱かったが、それもタロウらしさであろう(ブラックエンド&ブラック指令の方がさらに弱かったが)。
爆破炎上しながらも一度起き上がる根性を見せた点は評価したい(あからさまに人形だったがw)。
自分の父親が事故で死んだからと、健一に悪態をつく一郎。
気持ちはわかるが、さすがに身勝手すぎる。
白鳥船長の写真を叩きつけて、君のお父さんはまだ生きてるって。
もはや呪い殺しに来てるとしか。
その後本当に死んで一郎はどう思ったのだろうか。
健一との仲がこじれそうではあるが、父親を事故で亡くした同士、また仲良くなって頑張っているということにしておこう。

本話のテーマの一つに人間の知恵と勇気で怪獣(宇宙人)を倒すというのがある。
一見すると初代マンの最終回やセブン最終回のメッセージに近いようであるが、本話のテーマはちょっと違う。
もっと個人レベルなのである。
したがってバルキー星人が個人である光太郎や健一に対して攻撃するのは間違ってはいない。
ウルトラマンを挟んだ人間対侵略者という構図ではなく、あくまで個人の物語なのである。
ただし、星人対光太郎かというと、それも違う。
あくまで光太郎個人の問題なのである。
光太郎対光太郎と言ってもいいだろうか。
バルキーはただの外的環境でしかない。
2期は人間ウルトラというが、個人の問題に集約されるところが一番の特徴であろう。
そう考えるとウルトラマンティガが1期ウルトラの延長線上にあるのがよくわかる。
逆にメビウスが2期の延長にあるのもよくわかるであろう。

健一が港で投げつけていた人形はセブン、父という順であった。
なぜセブンが最初なんだ?
光太郎はバルキー星人を倒したとはいえ、あれじゃメガトン級の惨事な気がするが。
それまでに避難命令が出ててコンビナートに人はいなかったと解釈するとしても、あれは確実に外部にまで被害は及んでいる。
おそらく最終回だから派手にやろうぜというノリで火薬の量を増やしたのであろうが、映像的にはさすがにやり過ぎであった。
あれじゃ素直に光太郎よくやったとは言いにくい。
光太郎が辞めていくのもあるいはあの責任を取ったのではないかと勘繰ってしまう(笑)。

本話の粗で一番気になったのは、光太郎が健一に自分がタロウだと告白したところで、何も証明されていない点。
捻くれた子供だったら、自分を励ますために嘘をついていると思うだろう。
もちろん健一は優しいからそうは思わないだろうが、光太郎が優しさからそう言ってくれてると解釈しても不思議はない。
初代マンを除いてウルトラの最終回では仲間に正体を明かしているが、セブンも、新マンも、エースも、レオも、相手の目の前で変身している。
80は目の前で変身しなくても、仲間はそのことを知っていた。
タロウだけ正体を明かした後でも変身しないのである。
では、健一は光太郎がタロウであることの確証は持てなかったのか?
否、健一は光太郎がタロウである確証は持てたであろう。
まず、光太郎の人柄からそんな子供だましの嘘で自分を励ましたりしないと知っていること。
次に、バルキー星人が現れ、光太郎をタロウと呼んだこと。
そして、光太郎が戦ってる間、タロウは助けに現れなかったこと。
この状況証拠で十分、光太郎の言うことを信じられるのである。
星人が光太郎がタロウであることを証明するというのは何とも皮肉な感じがするが、これが一番わかりやすい。
もし星人が普通に現れて暴れるだけであったら、健一も半信半疑のまま光太郎と別れたのではなかろうか。

つらつらと駄文を書き連ねてきたが、きりがないので最後にラストシーンについて。
これは制作側も狙ってやったのだろうが、雑踏に消える光太郎という何とも寂しい最後になっている。
当時の青春ドラマをあまり見てないので断定できないが、そういう影響があったのも否定できないであろう。
いつもは楽しみにしてた「ウルトラマンナンバーシックス」というジングルさえも寂しく響く。
まさに祭りの後ということだろうが、お祭り色の強かったタロウだからこそ、この落差は大きい。
否応なしに視聴者も大人になることを強いられるラストである。

では、その後の光太郎はどうなったか?
解釈でも触れたが、世界を勉強しつつ、タロウと分離したというのがシリーズ的な結論であろうか。
それはその後の展開があるので致し方ない。
ただし、ウルトラマンタロウという番組単体で見た場合は、あくまでタロウと光太郎は同一人物というのがスタッフ及び脚本家の見方であろう。
「え?、ウルトラの国とか出てきたやん」と突っ込む人もいるかもしれないが、あれはあくまでメディアミックス。
もちろん設定としては存在するが、ドラマとして見た場合は重要ではない。
ドラマ的にはタロウと光太郎は同一人物で間違いないのである。

そして、その帰結として、光太郎がバッジを母に返した時点でウルトラマンタロウという存在は消滅したということになる。
言わば光太郎(=タロウ)が、人間とウルトラ族という二重国籍の状態から人間を選択したとも言えよう。
バッジの代わりに生きる喜びを知ったとはそういう意味なのである。
これは「帰ってきたウルトラマン」で郷という人格が新マンに吸収されたことや、「ウルトラマンエース」で北斗の人格がエースに吸収されたのとは逆パターンとも言える。
ウルトラの父と母の息子という設定やウルトラの国の登場で複雑に見えるが、ドラマとしては実は極めてシンプルな物語なのである。
魔法を失って大人に成長する。
これは子供向け番組を中心に脚本を書いてきた田口氏らしい考え方と言えるであろう。
そして、これ以後二度とウルトラマンタロウに変身しなかった篠田氏の解釈とも合致するのである。

本話の脚本はメインライターの田口成光。
監督は筧正典。
二期ウルトラを代表する両者がこのドラマを締めたのは至極当然と言えよう。
ただし、田口氏は次作のメインライターになっており、過酷な状況を強いられているが。
昭和ウルトラ全体に言えるが、最終回は唐突に強敵が襲来するパターンが多い。
ゼットン星人の船団が総攻撃してきた「ウルトラマン」、ゴース星人が史上最大の侵略を仕掛けてきた「ウルトラセブン」、バット星人が宇宙戦争を仕掛けウルトラ兄弟を抹殺しようとした「帰ってきたウルトラマン」、ヤプールが最後の挑戦をした「ウルトラマンエース」、ブラック指令が最強最後の円盤生物を呼び寄せた「ウルトラマンレオ」。
しかしタロウにおいてはバルキー星人は強敵でも何でもない。
サメクジラにしてもタンカーは沈められるが、タロウには全く歯が立たなかった。
タロウ全体で見ても弱い部類に入る怪獣と言えよう(ドロボンの方がはるかに強敵)。
つまりタロウの最終回はあくまでドラマ重視なのである。

これはこの番組が光太郎の物語である所以であろう。
そのことを見誤ると、タロウという番組の評価そのものも誤ってしまう。
メディアミックス等、外的な制約が多かったため粗が多く見えるが、ドラマとしては一貫している。
光太郎が雑踏に消えていく異色のラストも物語としては必然だったのである。
ウルトラシリーズという確固としたものができた今では難しいのかもしれないが、あまりそういうことに捕らわれすぎず、光太郎の人間ドラマとしてみれば、また違ったタロウの魅力も見えてくるのではないか。
ある意味、子供向けの何でもありな展開も、光太郎という人間を描くことに主眼があるのなら、些末なことだったのかもしれない。
もちろんウルトラマンタロウの魅力は派手な戦闘や客演、強豪怪獣との戦いやウルトラの国サブストーリーなどにあるのは間違いない。
しかし、同時に人間ドラマとしてのウルトラマンタロウもまた魅力的なのである。
あるいは、田口氏自身はそこが一番描きたかったのかもしれない。
この最終回が粗が多くても感動できるのは、そういう人間ドラマ的な部分を外してないからであろう。
ウルトラマンタロウは最後まで、東光太郎という一人の青年の物語であったのである。

ウルトラマンタロウ総括

最後に色々言われるウルトラマンタロウの功罪について検討する。
まず罪の方から検討することにしよう。

罪としては、まず客演のインフレ化により、ウルトラシリーズそのものが行き詰まった点が挙げられる。
タロウであまりに客演をやりすぎた反省から、次作ウルトラマンレオはウルトラ兄弟設定を捨てて始まったが、結局兄弟やキングまで出てきたのはご存知の通りであろう。
客演もやり過ぎると飽きられてしまう。
かと言って、それをやらないと視聴者の期待に応えられない。
80が視聴率的に振るわなかったのは客演がほとんどなかったからだと私は思っている。

実は私自身、80放送時は8歳で、80の放送開始を非常に楽しみにしていた。
しかし10話も見ないうちに視聴を切ってしまった。
何故かというと、80が私の期待した新しいウルトラマンではなかったから。
もしあれがウルトラマンゾフィという番組だったら私は最後まで狂喜して見たであろう。
すなわち、子供たちが客演やウルトラファミリー設定にあまりにも慣らされていたのである。

今なら80が意欲作で面白いというのも理解できるが、小学低学年の子供から見たらあまりにも地味だった。
いくらいいものを作っても派手な客演に慣らされた子供たちの目には刺激が乏しい。
結局80がヒットしなかったことで、ウルトラは暗黒期に入る。
一応ウルトラマン物語とかアンドロメロスとか作られたが、それらは完全に過去の遺産に頼ったもの。
それが飽きられると同時に第三次ウルトラブームも終焉してしまう。
それが第一の罪と言えよう。

次に、タロウが第一期至上主義者に叩かれた結果、ウルトラファミリー展開そのものが封印された点が挙げられる。
これは1つ目の罪と重なるが、タロウが低学年向けの作劇だったため所謂オタク層に受けが悪く、その結果ファミリー展開そのものまで子供だまし扱いされてしまった。
私も大人になってウルトラ関連の研究本を読み始めたが、その時は1期、とりわけセブンが素晴らしくて、2期は新マン、エースまではまだいいが、タロウ、レオはお子様向けで評価に値しないと思い込まされていた。
子供の頃はあれだけ楽しんで見ていたのに、そういう論評に影響されてタロウやレオを低く見ていたのである。

この流れはティガやダイナ、ガイアをはじめとする平成ウルトラが評価されるほど強くなっていった。
私自身はこのサイトを開始し昭和のウルトラを見直したためそのような評価は改めたが、もはやM78星雲そのものが消失の危機に晒されたのである。
これは後のマックス、メビウスで漸く解消されるが、当時の私は二度とM78星雲出身のウルトラマンは見れないと本気で思っていた。
タロウが駄作扱いされた結果、私たちが大好きだったウルトラファミリーまで消滅の危機に瀕したのである。

以上がタロウの罪で代表的なものと思われるが、タロウには功もあるのは前述したとおり。
では、それは何かというと、ズバリ、ウルトラファミリー設定であろう。
完全に功罪と裏表であるが、ファミリー設定は結果的にシリーズの世界観を広げることに貢献した。
もしウルトラシリーズが初代マン、セブンで終わっていたら、単なる過去の名作扱いでシリーズそのものは続いていなかったであろう。
もちろん、シリーズ間に直接繋がりがなくても、戦隊やライダーは続いているので、いつまでもウルトラを作り続けることは可能ではある。
しかし、戦隊やライダーと比べてモチーフに制限のあるウルトラを作り続けることはそうは簡単ではない。
今年のウルトラマンは忍者だとか電車だとか動物だとか、そういうわけにはいかないのである(笑)。

ウルトラシリーズのシリーズとしての魅力はやっぱりウルトラの星のウルトラの先輩たちの存在が大きい。
メビウスを嚆矢として再びウルトラファミリーの設定が見直されたことにより、今のシリーズ展開が可能になった。
そして、それに伴い昭和のウルトラマンも見直されたのである。
戦隊やライダーが新しいモチーフを取り込んで新作を作っていくのに対して、ウルトラは積極的に過去の遺産を活用している。
それだけ年月の流れに耐える作品群であったともいえるが、これこそ日本最長寿特撮シリーズのアドバンテージでもあろう。

ウルトラマンタロウという作品は良くも悪くも後世に色々影響を残した。
シリーズの行き詰まりというマイナス面もあれば、それを打開するためにティガ等の平成の名作が作られ、そして、今、積極的にファミリー展開がなされている。
タロウ制作当時、ファミリー設定を推し進めることはメディアミックスもあり、シリーズの流れとしては必然だったのであろう。
当時のスタッフは先のことなどは考えていなかったと思われる。
しかし、令和の世になって未だにウルトラマンエースが客演したり、昭和のウルトラ俳優たちの活躍を見るにつけ、ウルトラマンタロウが作られて本当に良かったと思う。
昭和の作品と令和の作品を同時に楽しめる。
まさにウルトラファンの僥倖であろう。

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